会社へ向かう朝の通勤途中、「〇〇くん!よーいどん!ダッシュ!」という大きな声が聞こえました。
声のほうを見ると、父親らしき人と、幼稚園の先生と思われる女性が、幼稚園児の男の子に声をかけていました。
幼稚園の先生の後ろに送迎バスが停まっています。
子どもを早くバスに乗せるために二人でせかしていたようです。
ふたりの大人が、男の子にバスへ急ぐよう促しているのに、男の子は走ろうとしません。
ただ黙ったまま、うつむいて、とぼとぼと歩いている姿が目に入りました。
その光景を見た瞬間、私はその子に強く感情移入してしまいました。
まるで自分の幼い頃を見ているような、そんな気持ちになったのです。
行きたくない気持ちを言えないまま
その子はきっと、幼稚園に行きたくなかったのだと思います。
理由はわかりません。
幼稚園がきらいなのか、ただ眠たかったのか、体が重くて歩くのがしんどかったのか
でも、確実に「嫌だな」という気持ちがあったはずです。
けれど、その子にはそれを拒否する自由がありません。
親や先生に逆らっても、自分ひとりで生きていくことはできないからです。
家出したとしても、どこかで必ず“大人の管理”に戻されます。
つまり、子どもには「従う」以外の選択肢がないのです。
子どもには、選ぶ自由がない
人は生まれるとき、自分の意志では何も選べません。
どの国に生まれるかも、どの家庭に育つかも、自分では決められない。
そして日本に生まれた子どもは、自動的に日本国籍となり、
「教育・勤労・納税」という三大義務を負わされます。
義務を負うことに同意した覚えはない。
それでも、「生きている限り当然」として、それらは課されます。
本人の同意なく国家の一員とされ、将来、社会の「労働力のストック」に組み込まれる。
その最初の「契約手続き」を行っているのが親なのです。
幼稚園や学校とは、“自由はない”と教え込む場所なのではないか
私はふと思いました。
幼稚園や学校に通うという行為は、無自覚のうちに「自由はない」という感覚を刷り込むための洗脳ではないかと。
・「時間割に従って動く」
・「集団に合わせて行動する」
・「評価に従って自分を判断する」
・「嫌でも我慢して通うのが当たり前」
そうした日常を繰り返すうちに、人は「社会の枠組みに従うこと」が“自然なこと”になっていきます。
疑問を持つことすら忘れていくのです。
それはまるで、「最初から自由などない」と無自覚のうちに納得させられるプロセスのようです。
洗脳される側から、洗脳する側へ
そして、恐ろしいことに
そうした“無自覚の洗脳”を受けた子どもたちは、やがて親になります。
「自分がそうされたから」という理由で、
自分の子どもにも同じように教育し、同じように社会に従わせる。
それを「当たり前」「正しい育て方」と信じて疑わないままに。
親は、子どもの自由を奪い、「従って生きるしかない」現実を押しつけることを、どう感じているのだろう。
それが愛情だと信じているのか。
それとも、それ以外のやり方を知らないだけなのか。
もちろん、多くの親は無自覚です。
自分自身もまた、そうやって育てられてきたから。
「従うこと」が“正しさ”として体に染み込んでしまっているから。
まとめ:誰もが自由を奪われているということ
あのとき見た、下を向いて歩く幼稚園児。
彼はまだ、抵抗する気持ちを捨てていませんでした。
それは小さな意思表示であり、小さな叫びだったのかもしれません。
でも大人たちは、「早くして」「走って」「バスに乗って」と、
その気持ちに気づくことなく、“正しさ”を優先して彼を動かそうとしていました。
人は生まれたときから「自由はない」。
それを無自覚に認識させる仕組みの中で育てられている。
そして誰もが、その構造に疑問を持たないまま、“次の世代”をつくっていく――
「自由がない」ことへの葛藤を感じるのは洗脳されきってない現れではないだろうかと、そんなことを考えた朝の出来事でした。
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