私は人生で「子供がほしい」と思ったことは一度もありません。
人によってさまざまな理由があると思いますが、私は自分自身が生きることに肯定的ではないということが一番の理由です。
その理由をまとめてみました。
「子供がかわいいからほしい」という感覚が理解できない
私の母は、「子供がかわいいから生んだに決まってるでしょ!」と当然のように言いました。
その言葉を聞いたとき、私は心の底から理解できませんでした。
子供がかわいいと感じる時期なんて、せいぜい10歳くらいまでではないのでしょうか。そこから先はどんどん大人になっていき、親が求める「かわいい子供像」はどんどん失われていきます。
つまり、たった数年だけの「かわいい」という感情を味わうために、一人の人間が約80年の人生を背負わされるという構図に強烈な違和感を覚えました。
そして、かわいがりたいという親の娯楽のために子供を生むという行為に、私はどうしても肯定的になれませんでした。
「産まれてくる子供の苦しみ」を想像しない親の軽さ
自分が生んだ子供がどんな人生を歩むかなんて、誰にも予測できません。
障害があるかもしれないし、つらい経験ばかりの人生になるかもしれない。
それでも多くの親は、「なんとかなる」「みんな生んでる」と軽く考えてしまうように見えます。
私の母もそうでした。
その浅はかさや、未来の子供の苦しみに対する想像力のなさに私はずっと強い嫌悪感を抱いてきました。
自分自身の人生が「ただただ苦しいもの」だった
私は社会に適応できない人生でした。
吃音や場面緘黙があり、子供の頃からずっと「劣っている人間」として扱われ続けてきました。
大人になってからも普通の働き方ができず、収入も低く、生活は常にギリギリです。
「生きていてよかった」と思えた瞬間は本当に一度もありません。
誤解してほしくないのは、「楽しいことがひとつもない」という意味ではありません。
一時的に楽しい時間はあっても、苦しさの重さが圧倒的なので、人生全体の印象は「苦」に支配されています。
そんな自分の遺伝子を受け継いだ子供が、生きやすくなると思えません。
自分のような生きづらさを抱え、苦しむ人間をこれ以上増やしたくないという気持ちが、とても強いです。
「生まれた子供がかわいそう」という視点がどうしても消えない
外で子供を見ると、私の中では「かわいい」よりも「かわいそう」が先にきます。
私はあと40年ほどの人生だけど、この子はこれから100年近くも生きるのかと思うとゾッとしてしまいます。
もちろん、これは完全に私自身の経験に基づいた視点だと理解しています。
世の中には、悩みも少なく、比較的スムーズに生きられる人もいるのでしょう。
そういった人たちは子供を生んでも、同じようにすいすい生きていけるのかもしれません。
でも私にはそのような経験はないので想像ができません。
私は子供を見ると、自分の幼少期のつらさが蘇って苦しくなります。
そのため、どうしても「苦しむために生まれてきてかわいそう」と考えてしまい、素直にかわいいと感じることができません。
「生みたい」と思ったことが一度もないという事実
私は人生で一度も「子供を生みたい」と思ったことがありません。
そのため、「産まない」という選択をしたつもりもありませんし、迷ったこともありません。単純に、子供を持ちたいという欲求が自分の中に存在しなかっただけです。
自分の経験や価値観、家庭環境を振り返ると、子供を生むことに自然に心が向かなかった理由は明確です。
親の都合や娯楽のために生まれる子供の存在、そして自分自身が感じてきた生きづらさを考えると、子供の未来を軽く扱うことにどうしても違和感を抱いてしまいます。
この文章を書きながら改めて実感したのは、私は「子供を持たない選択」をしたのではなく、そもそも「生みたいという欲求が存在しなかった」という事実が自分の中の自然な立ち位置だということです。
他人の価値観や社会の常識に左右されることなく、ありのままの自分の感覚を受け入れることこそが、私にとって誠実な生き方の一部だと感じています。


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