「お礼を言いたい」は善意か、それともエゴか?【美談の裏側】

心理・気持ち
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この記事を書いた人
ゆま

ゆまです。
40代・独身。普通の生活に馴染めず、毎日ちょっと息苦しさを感じながら生きています。そんな日常で気づいたことや役立つヒントをゆるく書いています。

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先日、妊娠7カ月の女性が無人駅で転落…高校生5人組が救ったというニュースが報じられました。

そして、救われた女性は「命を救ってくれた高校生たちに、どうしてもお礼を伝えたい」ということで、人探しをし、救ってくれた高校生を見つけ、わざわざ高校に出向き対面したということです。

メディアは「感動の再会」「命のバトン」と美談として扱っていますが、このニュースに対して、私は「とてつもない違和感」を覚えました。

というのは、
どうしてもお礼を伝えたい
といってわざわざ相手に会いに行く行為って完全な自己満足ではないかという違和感です。
会いに来られてお礼を言われた側になにのメリットがあるんだろう?
むしろデメリットになる場合もあるのではないのだろうか?と。

感謝という名の「タスク」を課すリスク

お礼を言いたいから人を探し出す」という行動は、一見すると美しい誠実な行動に見えます。しかし、探される側(今回で言えば高校生たち)の視点に立つと、状況は一変します。

  • 時間の搾取: 授業や部活動、あるいは貴重な休日を「対面」のために割かなければなりません。
  • 精神的エネルギーの消費: 相手が誰で、どんなテンションで来るのかわからない中、失礼のないように振る舞い、感謝の言葉に対する「適切な返答」を準備する必要があります。
  • 拒否権のない空気感: 特にニュースになるようなケースでは、相手の申し出を断れば「冷たいやつだ」と世間から叩かれるリスクがあり、事実上の強制参加となります。

これらはすべて、助けた側にとっては「何の得にもならない、予定外のタスク」を一方的に押し付けられた状態と言えます。

「自己満足」で終わっていないか

お礼を言いたい側は「どうしても伝えたい」「会ってスッキリしたい」という自分自身の感情が起点になっています。しかし、その感謝が「相手が求めているもの」かどうかは別問題です。

もし本当に相手のことを思うのであれば、相手の手間を最小限にする方法(例えば、学校を通じて匿名で手紙やギフトを送るなど)も選べたはずです。わざわざ対面の場をセッティングし、メディアを巻き込む形にするのは、結局のところ「お礼を言っている自分」に酔っている、あるいは自分が安心したいだけという側面を否定できません。

「ありがとう」という言葉の無力さ

「お金や報酬がすべてではない」という考え方もありますが、現実に奪われているのは、その人の人生の切り売りである「時間」です。

「お礼を言われて終わり」では、助けた側の持ち出し(コスト)が多すぎる。

相手に時間を使わせ、精神的なストレスをかけ、それに対するリターンが「ありがとう」という言葉と、SNSやメディアでの一時的な注目だけだとしたら、それは公平な関係とは言えません。むしろ、助けた側の平穏な日常をかき乱しているだけではないでしょうか。

今回の件は相手が高校生だったということ

今回に関しては助けたのが高校生だったということで高校生にメリットがあったかもしれません。
学校側に連絡が入ったということなので、内申点アップにつながったかもしれませんし、今後の就職活動などで「こんなことをしてニュースになった」という事実を伝えれば有利になるかもしれません。

もし自分が助けた側の立場だったら?

わざわざ人探しまでされて、さらに「会いに行っていいか?」など言われたら私だったら普通に断ります。

「あのときはありがとうございました」と面と向かって言われたところで、私は一体どういう対応をしたらいいのかわかりません。
無表情で「いや、べつに」とか言ってしまいそうです。

こちらも満面の笑みで「赤ちゃんが無事産まれてよかったですね!」って言ってあげるのが大人の対応なんでしょうけど、この人を満足させるために笑顔作って言葉を選んで、場の空気を悪くしない努力を必死でやらされることになるわけです。

「一体なんの時間なんだろう」と思うでしょうね。
人の時間を何だと思っているんだろう。
自分の願望を叶えるためだけに相手の時間や労力を平気で踏みにじる行為をしていると気づかない人。
相手の立場を考えられない人なんだなと私は思います。

「謝罪をしたい」も同様

私は以前、とあるお店で購入した商品が不良品で交換を申し出たのですが、その商品は在庫切れだったので他店舗から取り寄せることになりました。取り寄せは3〜4日かかって到着したら電話で連絡すると言われました。

しかし、一週間たっても連絡がなかったため、カスタマーサービスにメールをしました。
「こういう状況で連絡がまだ来ないのですが?」と。

そしたらすぐに返信が来て、 事情としては、お店の方が電話番号を間違えて別人の電話に留守電を入れていたことがわかりました。
私はそれについては「まあしょうがない」ぐらいに思って別に怒ってもいませんでした。

しかし「すぐにお店から謝罪の電話をさせますので」と返信が来ました。

私はふつうに「やめてください。このままメールで済ませてください」と返信しました。

単純に電話が嫌いなのもありますが、電話が掛かってきて「申し訳ございませんでした」と言われたところで、私に何のメリットもないですし、むしろ時間の無駄だしよけいなストレスが掛かります。

このように「直接会って謝罪したい」とか「会ってお礼がしたい」という要望が、どれほど自己中心的な行動で相手にとって迷惑なのかを理解しないどころか、むしろ良い行いをしていると思い込んでるのが困ったものです。

まとめ:理想的な「感謝」の形とは

もちろん、命を救われたことへの感謝は計り知れないものでしょう。しかし、本当の「善意」とは、相手の負担を想像することから始まるのではないでしょうか。

「お礼を伝えたい」という衝動が、相手の貴重な時間を奪う権利を与えてくれるわけではありません。相手が「助けて良かった」と心から思えるのは、大掛かりなセレモニーではなく、「その後、何の負担もかけられることなく、穏やかな日常を過ごせること」なのかもしれません。

世の中の美談を鵜呑みにせず、その裏にある「コスト」に目を向ける視点。それこそが、今の時代に必要なリアリズムだと言えるでしょう。

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