私はあけましておめでとうという挨拶が苦手だ。
友達からあけおめLINEが来ると気が滅入ってしまう。
以前はあけおめLINEが来たら割り切って一応こちらもあけおめと返信していたが、もう今年はスルーすることしかできなかった。
どうしても拒絶反応が出てしまう。
そんな性格なのであけましておめでとうの挨拶がない知人のほうが多い(というかそもそも友達がほとんどいない)。
友人とのやりとりだけでなく会社での年末年始の挨拶ももちろんキライだ。
だけど職場では割り切って対応している。仕事だと思って機械的にこなしてしまえばいいだけだから難しくない。
だけどプライベートであけましておめでとうは本当にキツイ。勘弁してほしいと思う。
ネット検索してみるとやはり同意見の人は結構いるみたいだ。
「あけましておめでとう」が苦手な理由を考えてみた
無思考に定型文を棒読みされる行為が苦手
一番の苦手な理由はただの定型文でありその文章に対して何の意味もないということだ。
「年始にはあけましておめでとうを送るのが普通だから」という世間一般の風潮や習慣があるからそれに従ってるだけで、それに対しての目的や思考や感情が感じられることがなく、機械的で形式的な行為に虚しさを感じる。
そんな無意味で虚しい行為に時間と労力を使うのがもったいないと思ってしまう。
そもそもなにがめでたいの?という疑問
純粋に「年が明けて何がめでたいの?と疑問に思う。
はっきり言って年が変わってめでたいと思ったことは私は人生で一度もない。
具体的に明確に年が変わることがこんなにめでたいと説明できるならしてほしい。
誰にとって何がどうめでたいのだろう?
ChatGPTに聞いたらこんな回答だった。
1. 無事に年を越せたことへの感謝
新年を迎えるということは、過去1年を健康で過ごし、生き延びられたことへの感謝を表しています。昔は自然災害や疫病などで1年を生き延びるのが今以上に難しかったため、新しい年を迎えること自体が喜ばしいことでした。
2. 再スタートの象徴
年が変わることは、リセットの機会でもあります。新しい気持ちで目標を立てたり、これまでのことを振り返って新たな一歩を踏み出すのに適したタイミングです。
3. 豊作や繁栄を祈る
古くは、年神様(としがみさま)を迎える行事として正月がありました。この神様はその年の五穀豊穣や家族の繁栄を司るとされており、新年を迎えることで幸運を願う意味があります。
4. 人とのつながりを深める機会
「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わすことで、人との絆を確認したり、改めて関係を良好に保とうとする文化的な側面もあります。
5. 希望や期待
新年には「これから良いことがあるかも」という希望や期待が自然と湧きます。これが「めでたい」という感情につながるのかもしれません。
ChatGPT
昔は生き延びることが難しいことだったので、新しい年を迎えることができたことに対してありがたみを感じていたということらしい。
しかし現在で普通に生きていて「今年も生き延びて新しい年を迎えられた」と思う人は少ないだろう。重い病気の人やその家族だったらわかるが。
このご時世だと、生きることに苦痛を感じている人も少なくない。これから先の未来に希望を持てない人だってたくさんいる。年が明けてめでたいという状況の人もいるかもしれないが、めでたいと感じない人も多くいることは想像できることだ。
4. 人とのつながりを深める機会
昔は集団で協力し合って生活を維持し、人とのつながりなしに生きられない時代だったので「どうぞこれからもよろしく!」と本心から強く願ってあいさつを大事にしていたのかもしれない。
でも今は時代が違う。現代では実際の人と人とのつながりではなく、金銭のやりとりによってでしか衣食住が成り立たない。つまり生きる上で大事なのは人と人の実際のつながりではなくお金ということだ。実際に友達や知り合いが全然いなくてもひとりで引きこもって生きている人はいる。人間関係がわずらわしく面倒に感じ、人と関わらない生活を望む人も少なくない。
そのような現代の生活基準からの心理を考えると「あけましておめでとう」という挨拶は不要なものと感じてもおかしくないだろう。
「今年もよろしく」も苦手
今年もよろしくねって言われるのもすごく苦手。
年区切りで毎年改まってよろしくって言われると「関係を維持させるのが義務なの?」と関係性を強要されている気分になってしまう。
仕事など実際に契約で結ばれている関係性だったらかまわないけど、利害関係のない友人同士などに使うのは苦手だ。
そもそも人間関係について宣言をされるっていうのがすごく苦手。例えば「付き合って」とか「友達になろう」みたいな宣言。友達や恋人関係が契約みたいで息苦しい。それと同じ感じで「あなたと私は今年いっぱい仲良くすること」への契約書に同意させられてるのと同じ気分になってしまう。
友人関係は契約じゃくて、ありのままの素の自分がそのときに求める自由や楽しさと一致していることが大事だと思う。昔はすごく中の良い友達だった人も時間が経ったり違う環境で暮らすようになると価値観や意見が変わって友達じゃなくなっていくことは誰にでもよくあること。そういう本来自由な友人関係に対して「今年もよろしく」は、私にとって強要に感じて精神的負担を感じてしまう。
「あなたにっとって良い年になりますように!」も
これも同様に「良い年」であることを他人から強要されてる気分になる。
そもそも何で年単位で良いとか悪いとか判断をしなければならないのかという疑問。
一年は長い。良いことも悪いこともあって年間で良かったか悪かったを判断するという考えがムダに思えてどうしようもない。
「いい年」「悪い年」って感覚は私には理解できない感覚かもしれない。
思考が伴っていない軽薄なやりとりは時間のムダ
総合的に言うと、あけましておめでとうにまつわる言葉の数々はただの定型文であって、やっている行為も機械的な自動返信と変わらない。それを閲覧し返信する側の時間や労力を奪われるのが本当にいやだと感じる。
ようは無意義なことに自分の時間と思考をムダに奪われるのが人一倍嫌いなのだ。
【内的な理由】物事をいちいち深く考えてしまう性格
私には「そういうものだから」「みんなやってるから」程度のことを行動することが難しい。
その行動に意味や意義がないとできない。またはどうしてもやらなければならないときはひどく疲弊し強いストレスを感じる。
おそらく私のような性質の人間は世の中の多くの人から見ると「あまのじゃく」だとか「神経質」と見られることはよくわかっている(逆に私のような人間から見た世の多くの人は無神経で短絡的に見えるのだが)。
だけどこの深く考えてしまう性質はやめようと思って治るものではない。考えようと思って考えているわけではなく、反射的に勝手にしてしまうことだから。
だからあけましておめでとうを言われたからと言って持論を語る気はまったくない。引かれることは重々承知だ。
だけど私と同じように「あけましておめでとう」等の定型挨拶が嫌いな友人も多くいる。
いっしょにいてストレスのない理解し合える友人がいることはありがたいし、世の中にもたくさんいるだろうと思う。
同様の疑問やストレスを感じる人に伝われば幸いだ。
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